方舟 ― Noah's ark ―

 

 

「ノアはまず、鴉を空へと放った。しかし鴉は戻らなかった。次にノアは、鳩を空へと放った。始めの鳩は、地上を見つけられずにやがてノアの待つ船へと戻ってきた」

 

足音も立てずに、軽やかに舞い降りて。屋上の冷たい風に銀の翼を嬲らせながら。怪盗が歌うように朗々と声を投げる。囁くように。睦言のように。

 

「7日後。ノアは再び鳩を空へと放った。鳩は数日後、オリーブの葉を銜えて戻ってきた。更にノアが7日後にもう一度鳩を放つと、鳩はもう船へは戻ってこなかった」

 

 

「Where did the bird released first go?」

一羽目の鳥は何処へ消えたのでしょう?

 

 

ぞっとするような柔らかな、愉しげなテノールが。

キンと張りつめたような初冬の夜の静寂に。

グラスを弾いた音色のように。

澄んだ冷たい音の波紋を投げた。

 

 

「どうやら貴方は『怪盗KID』の謎を、とてもお気に召したようだ」

 

歌うような声はあくまでも淡々と。そして冷涼で。

口元に浮かぶ酷薄な笑みも、その凛とした声同様に深く、澄んで。

 

「私の『謎』は、楽しいですか?」

 

しかし。空のような高みを識るその不屈の蒼の虹彩には、油断のならない射るような剛い猛禽の光を宿らせて。――断罪するような。非難するような。哀れむような。愛おしむような。そんな相反する感情を全て内包した、凍てついた凍える視線で。怪盗は嗤う。綺麗に、美麗に。

 

「所詮、怪盗も探偵も、好奇心という名の鍵で、他者の秘め事を無邪気に無慈悲にこじ開ける、無礼で無粋な生き物ですからね…。――ねえ? 名探偵…? 楽しいですか?  怪盗KID ( わたし ) の謎は」

 

クスクスと、笑みを浮かべ。それでもその表情も口調も声音も裏切るように、凍えた瞳が探偵を射る。

 

「一羽目の鳥は、一体何処へ消えたのでしょうね…?」

 

疲れたように、溜息のように密やかに。漏らされた慟哭。

 

「黒き羽持つ、翼あるものの賢者たる黒き鳥は何処へ消えてしまったのでしょう? ノアの箱船に乗せられたのは、全ての生き物の番であるにも関わらず…人の為にその片翼を喪った黒の賢者は、一体どうしてその絶望と孤独を癒したのでしょう……?」

 

憂いるような言葉と裏腹に、口元には戯けたような笑みさえ乗せて。

 

「その漆黒の翼は、力無く水に浮かび。その聡明な瞳は、もはや何も映さず。ただ、冷たい水に囲まれて。――一羽目の賢者は、その時何を想ったのでしょう。ほんの少しは、残される番のことを……?」

 

芝居がかった仕草で、細い優美な両腕が己自身を抱き締める。凍えるように。

怪盗の優美な佇まい。形のよい口元が嗤うたびに、綺麗なテノールが冷涼な言葉を紡ぐたびに。赤い暖かな何かを吐き出しているような、そんな幻。胸から見えない血を流し、声なき声で慟哭する、その壮絶な滅びの美。

 

「聖なるかな! 地上に今や命は満ち溢れ、されども始めに飛んだ黒き気高き鳥は、もはやもうこの空の何処にも居ない。――残されたのは、白き羽持つ不逞の愚かな鳥の幻のみ……嗚呼! 何という幸い!」

 

戯けるクラウンのような、滑稽な嘆き。

嘲るように、蒼穹の深い蒼を眇めて。戯けるように、口元に楽しげな笑みを掃き。

 

「宜しい。如何様にも無様に月夜を飛んで見せましょう。貴方が望む限り。貴方が欲する限り。私めはこの汚れた偽りの白い翼で、何度でも飛んで見せましょう。それが今や私のたったひとつの存在意義成れば」

 

探偵は、ただ気圧されるように怪盗を見つめる。魅入られたように。

 

「喪われた我が最愛の名探偵の残滓に敬意を表し。貴方の望む限り、冬の凍える空を、幾度でも飛んで御覧に入れましょう。――東の名探偵殿」

 

――忘れてしまったの!?

 

責めるように、嘆くように。血を吐くように激昂した隣家の小さな少女の声が、脳裏に蘇る。

 

――彼のことを! 本当に!?

 

いつも冷静な。いっそ冷淡と言っても良いような表情も、声音も投げ捨てて。激情のままに。狼狽を隠そうともせずに。涙すら、隠そうともせずに。――あの、プライドの高い彼女が。

 

――凍える鳥を、暖めたいと思っていた。

――ただ独りで冷たい夜空を飛ぶ鳥を、この手で抱き締めてやりたいと。

――その為に、戻るのだと。

――その為に、取り戻すのだと。

 

しかし。元の姿を取り戻した『彼』は、鳥を忘れていた。

 

――他のことを何ひとつ覚えていなくても…っ! 彼のことだけは絶対に忘れてはならなかったのに!! 貴方だって、そう思っていたはずなのに!!

 

責めるように、愕然と。悄然と。涙に濡れた瞳で此方を睨んだ、少女。

 

――だから、薬を渡したのに…!

 

 

「お前と会うのは…今夜が初めてのはずだ」

――少なくとも、時計台の時の邂逅は、ほんの一瞬の擦れ違いに過ぎない。だから、この怪盗と対峙するのは、今夜が初めてのはずだった。そして、一瞬で心も視線も奪われた。

「ええ。仰る通りですよ…?」

――「日本警察の救世主」殿。

 

皮肉気に吊り上がった口角。そんな嘲るような、不敵で不遜な表情すら、怪盗のそれは忌々しいほどに綺麗だった。眩暈のような恍惚。飢餓のような衝動。

 

「貴方という存在の復活のために喪われた存在。それが…それだけが今もなお、この私を無様に生かしている。たったひとつの…最早守られることのない『約束』だけを胸に。――少なくとも、あの時の彼には『嘘偽り無い』はずの…この私に『彼』が呉れた、ただひとつの誓いを糧に」

 

その僅かな所作にも、声にも、瞳も思考も奪われる。対峙した瞬間。セイレーンの歌声のようなその圧倒的な存在に、殴られたかのような衝撃を受けた。捕らえることなど、不可能だと。無意識にそう諦観し受け入れてしまうような、同じ人間だとか、所詮はただの犯罪者なのだとか。実際に対峙する前に考えていた己の認識を全てぶち壊し、塗り替え。同じ世界に存在していることが信じ難いほどに絶対的な、孤高の気高き存在として。

 

「嘗て。私の小さな探偵さんが、くれた心を。その熱の残滓だけを胸に。――喪ったものを、取り戻そうなどと愚かなことは願いません。ただ、私は彼の遺したただひとつの熱を失いたくないだけ。だから、私は貴方のためにでも飛びましょう」

現実に戻った人の、心の慰みに。

 

「楽しいですか? 私の謎は」

 

貴方の心の寂寥と、殺伐した日々に一時の華を咲かせましょう。

 

喪われた存在の残滓に。熱に。

 

 

「貴方にほんの僅かにでも楽しんで頂けているのならば、今の私にとってこれ程の幸いはない。――聖なるかな!」

 

嘗て『彼』があれ程取り戻したいと嘆いていた、伸ばされた彼本来の長い腕から難なく逃れ。

怪盗は背後の鉄柵に音もなく跳躍した。

 

「……っ!」

空を掴む手。その後に向けられた探偵の悔しげな表情に、一瞬だけ小さな探偵の残滓を見つけて、怪盗はうっすらと微笑んだ。

――嗚呼。それでも、その貴方が嘆いていた細く小さな腕なら、容易くこの身を捉えることも出来たというのに。小さくても、暖かなその手の感触を、熱を。今だこの肌が覚えているそれを、喪いたくはない。

――例え、それが貴方でも。

 

「私が欲しいのは、その腕ではない」

 

冷涼に、嫣然と微笑んで。口惜しげに此方を見据える探偵に、絶対的な拒絶を口にし。

 

今夜も。必要のない、月夜に飛ぶ。

 

「結局の処…私という存在は『神が見捨てし仔の幻影』。神の愛を受け繁栄する『正しきノアの後継者』を横目に、ただ独り喪われた片翼を求め、月の夜に凍えて飛ぶのが相応しい…」

 

喪われた半身を求め。喪われた半身の残滓を呪いながらも慈しみ。

奪われた番を血と共に繰り返し呼びながら。今夜も、また。

 

 

 

「嗚呼…」

絶望と切望に彩られた声は、感嘆と恍惚に震え。凍え。

しかし口元には嫣然と超越者の笑みを刻み。

「――聖なるかな。聖なるかな…」

産めよ、増やせよ。

育てよ。――我が最愛の半身の屍を苗床に。

大いに繁栄し、生を喜び生きるがいい。神の祝福に包まれて、歓喜に歌うがいい。

それは『彼』という存在と引き替えに与えられたモノなれば。

それを私は尊び、慈しみ、守り、しかし同時に憎むでしょう。これからも。この先も。

この羽が力を無くし、この瞳が光を失い、やがてこの身が地に落ちるまで。

 

 

「But...Where did the bird released first go?」

(でも…一羽目の鳥は何処へ消えたのでしょう?)

 

青白い月明かりに身を焦がし。

歌うように、血を吐いて。

独り。辿り着けない夜明けに向かって、飛ぶ。

 

 

 

QUIT.

2004.12.12. GUREKO


…ブラックと言うよりも、ただ単に暗いだけのような気もします(爆)

Mみやさんとか、明神様のような憂い含みの黒怪盗を書こうと思ったんですが…ですが。理想と現実は大いにかけ離れており(今更か)。

やっぱり基本は「コK」なんで、KIDには工藤さんよりも男前な小さな探偵さんが一番お似合いかなーと。コナン以前の工藤新一とコナンを「どっちも同じ」とは言えないだろう。コナン後の工藤さんは微妙にコナンの残滓を持った人物(子供っぽさとかー)になっていそうなので、許すが(いや、別にアンタの許しは必要ないから!)。少なくとも1巻の只の推理バカ・工藤新一にKIDはくれてやれねーなぁ…! とか(苦笑)。つーか、KIDって絶対に「女子供」に弱いので(笑)子供の姿の時のほうが、有利だよな…とか、勝手に思ってます。

ノアの箱船の話>素朴な疑問。番で乗せていたはずの鳥の、片方だけを野に放ち…。一体コイツらはどうやって繁殖したのだろうか? 鴉と鳩だけ、番の他にももう一羽乗せていたのか?(ンなバカな!)っつー、パラドックス(^▽^;)←それ以前にツッコむ処が山程あんだろーが!<旧約聖書

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