方舟 ― Noah's ark ―
「ノアはまず、鴉を空へと放った。しかし鴉は戻らなかった。次にノアは、鳩を空へと放った。始めの鳩は、地上を見つけられずにやがてノアの待つ船へと戻ってきた」 「Where did the bird released first go?」 一羽目の鳥は何処へ消えたのでしょう?
ぞっとするような柔らかな、愉しげなテノールが。
「どうやら貴方は『怪盗KID』の謎を、とてもお気に召したようだ」
歌うような声はあくまでも淡々と。そして冷涼で。 口元に浮かぶ酷薄な笑みも、その凛とした声同様に深く、澄んで。
「私の『謎』は、楽しいですか?」
しかし。空のような高みを識るその不屈の蒼の虹彩には、油断のならない射るような剛い猛禽の光を宿らせて。――断罪するような。非難するような。哀れむような。愛おしむような。そんな相反する感情を全て内包した、凍てついた凍える視線で。怪盗は嗤う。綺麗に、美麗に。
「所詮、怪盗も探偵も、好奇心という名の鍵で、他者の秘め事を無邪気に無慈悲にこじ開ける、無礼で無粋な生き物ですからね…。――ねえ? 名探偵…? 楽しいですか?
クスクスと、笑みを浮かべ。それでもその表情も口調も声音も裏切るように、凍えた瞳が探偵を射る。
「一羽目の鳥は、一体何処へ消えたのでしょうね…?」
疲れたように、溜息のように密やかに。漏らされた慟哭。
「黒き羽持つ、翼あるものの賢者たる黒き鳥は何処へ消えてしまったのでしょう? ノアの箱船に乗せられたのは、全ての生き物の番であるにも関わらず…人の為にその片翼を喪った黒の賢者は、一体どうしてその絶望と孤独を癒したのでしょう……?」
憂いるような言葉と裏腹に、口元には戯けたような笑みさえ乗せて。
「その漆黒の翼は、力無く水に浮かび。その聡明な瞳は、もはや何も映さず。ただ、冷たい水に囲まれて。――一羽目の賢者は、その時何を想ったのでしょう。ほんの少しは、残される番のことを……?」
芝居がかった仕草で、細い優美な両腕が己自身を抱き締める。凍えるように。 怪盗の優美な佇まい。形のよい口元が嗤うたびに、綺麗なテノールが冷涼な言葉を紡ぐたびに。赤い暖かな何かを吐き出しているような、そんな幻。胸から見えない血を流し、声なき声で慟哭する、その壮絶な滅びの美。
「聖なるかな! 地上に今や命は満ち溢れ、されども始めに飛んだ黒き気高き鳥は、もはやもうこの空の何処にも居ない。――残されたのは、白き羽持つ不逞の愚かな鳥の幻のみ……嗚呼! 何という幸い!」
戯けるクラウンのような、滑稽な嘆き。 嘲るように、蒼穹の深い蒼を眇めて。戯けるように、口元に楽しげな笑みを掃き。
「宜しい。如何様にも無様に月夜を飛んで見せましょう。貴方が望む限り。貴方が欲する限り。私めはこの汚れた偽りの白い翼で、何度でも飛んで見せましょう。それが今や私のたったひとつの存在意義成れば」
探偵は、ただ気圧されるように怪盗を見つめる。魅入られたように。
「喪われた我が最愛の名探偵の残滓に敬意を表し。貴方の望む限り、冬の凍える空を、幾度でも飛んで御覧に入れましょう。――東の名探偵殿」
――忘れてしまったの!?
責めるように、嘆くように。血を吐くように激昂した隣家の小さな少女の声が、脳裏に蘇る。
――彼のことを! 本当に!?
いつも冷静な。いっそ冷淡と言っても良いような表情も、声音も投げ捨てて。激情のままに。狼狽を隠そうともせずに。涙すら、隠そうともせずに。――あの、プライドの高い彼女が。
――凍える鳥を、暖めたいと思っていた。 ――ただ独りで冷たい夜空を飛ぶ鳥を、この手で抱き締めてやりたいと。 ――その為に、戻るのだと。 ――その為に、取り戻すのだと。
しかし。元の姿を取り戻した『彼』は、鳥を忘れていた。
――他のことを何ひとつ覚えていなくても…っ! 彼のことだけは絶対に忘れてはならなかったのに!! 貴方だって、そう思っていたはずなのに!!
責めるように、愕然と。悄然と。涙に濡れた瞳で此方を睨んだ、少女。
――だから、薬を渡したのに…!
「お前と会うのは…今夜が初めてのはずだ」 ――少なくとも、時計台の時の邂逅は、ほんの一瞬の擦れ違いに過ぎない。だから、この怪盗と対峙するのは、今夜が初めてのはずだった。そして、一瞬で心も視線も奪われた。 「ええ。仰る通りですよ…?」 ――「日本警察の救世主」殿。
皮肉気に吊り上がった口角。そんな嘲るような、不敵で不遜な表情すら、怪盗のそれは忌々しいほどに綺麗だった。眩暈のような恍惚。飢餓のような衝動。
「貴方という存在の復活のために喪われた存在。それが…それだけが今もなお、この私を無様に生かしている。たったひとつの…最早守られることのない『約束』だけを胸に。――少なくとも、あの時の彼には『嘘偽り無い』はずの…この私に『彼』が呉れた、ただひとつの誓いを糧に」
その僅かな所作にも、声にも、瞳も思考も奪われる。対峙した瞬間。セイレーンの歌声のようなその圧倒的な存在に、殴られたかのような衝撃を受けた。捕らえることなど、不可能だと。無意識にそう諦観し受け入れてしまうような、同じ人間だとか、所詮はただの犯罪者なのだとか。実際に対峙する前に考えていた己の認識を全てぶち壊し、塗り替え。同じ世界に存在していることが信じ難いほどに絶対的な、孤高の気高き存在として。
「嘗て。私の小さな探偵さんが、くれた心を。その熱の残滓だけを胸に。――喪ったものを、取り戻そうなどと愚かなことは願いません。ただ、私は彼の遺したただひとつの熱を失いたくないだけ。だから、私は貴方のためにでも飛びましょう」 現実に戻った人の、心の慰みに。
「楽しいですか? 私の謎は」
貴方の心の寂寥と、殺伐した日々に一時の華を咲かせましょう。
喪われた存在の残滓に。熱に。
「貴方にほんの僅かにでも楽しんで頂けているのならば、今の私にとってこれ程の幸いはない。――聖なるかな!」
嘗て『彼』があれ程取り戻したいと嘆いていた、伸ばされた彼本来の長い腕から難なく逃れ。 怪盗は背後の鉄柵に音もなく跳躍した。
「……っ!」 空を掴む手。その後に向けられた探偵の悔しげな表情に、一瞬だけ小さな探偵の残滓を見つけて、怪盗はうっすらと微笑んだ。 ――嗚呼。それでも、その貴方が嘆いていた細く小さな腕なら、容易くこの身を捉えることも出来たというのに。小さくても、暖かなその手の感触を、熱を。今だこの肌が覚えているそれを、喪いたくはない。 ――例え、それが貴方でも。
「私が欲しいのは、その腕ではない」
冷涼に、嫣然と微笑んで。口惜しげに此方を見据える探偵に、絶対的な拒絶を口にし。
今夜も。必要のない、月夜に飛ぶ。
「結局の処…私という存在は『神が見捨てし仔の幻影』。神の愛を受け繁栄する『正しきノアの後継者』を横目に、ただ独り喪われた片翼を求め、月の夜に凍えて飛ぶのが相応しい…」
喪われた半身を求め。喪われた半身の残滓を呪いながらも慈しみ。 奪われた番を血と共に繰り返し呼びながら。今夜も、また。
「嗚呼…」 絶望と切望に彩られた声は、感嘆と恍惚に震え。凍え。 しかし口元には嫣然と超越者の笑みを刻み。 「――聖なるかな。聖なるかな…」 産めよ、増やせよ。 育てよ。――我が最愛の半身の屍を苗床に。 大いに繁栄し、生を喜び生きるがいい。神の祝福に包まれて、歓喜に歌うがいい。 それは『彼』という存在と引き替えに与えられたモノなれば。 それを私は尊び、慈しみ、守り、しかし同時に憎むでしょう。これからも。この先も。 この羽が力を無くし、この瞳が光を失い、やがてこの身が地に落ちるまで。
「But...Where did the bird released first go?」 (でも…一羽目の鳥は何処へ消えたのでしょう?)
青白い月明かりに身を焦がし。
QUIT. 2004.12.12. GUREKO
Mみやさんとか、明神様のような憂い含みの黒怪盗を書こうと思ったんですが…ですが。理想と現実は大いにかけ離れており(今更か)。 やっぱり基本は「コK」なんで、KIDには工藤さんよりも男前な小さな探偵さんが一番お似合いかなーと。コナン以前の工藤新一とコナンを「どっちも同じ」とは言えないだろう。コナン後の工藤さんは微妙にコナンの残滓を持った人物(子供っぽさとかー)になっていそうなので、許すが(いや、別にアンタの許しは必要ないから!)。少なくとも1巻の只の推理バカ・工藤新一にKIDはくれてやれねーなぁ…! とか(苦笑)。つーか、KIDって絶対に「女子供」に弱いので(笑)子供の姿の時のほうが、有利だよな…とか、勝手に思ってます。 ノアの箱船の話>素朴な疑問。番で乗せていたはずの鳥の、片方だけを野に放ち…。一体コイツらはどうやって繁殖したのだろうか? 鴉と鳩だけ、番の他にももう一羽乗せていたのか?(ンなバカな!)っつー、パラドックス(^▽^;)←それ以前にツッコむ処が山程あんだろーが!<旧約聖書 |
〈お戻りはブラウザバックで〉
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